催馬楽(さいばら)に関する情報を公開する学術サイトです。
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催馬楽前史
白鳳時代
- 天武天皇4年675 2/9 畿外諸国に対し、歌を能くする男女、侏儒、伎人貢上の勅
「大倭、河内、摂津、山背、播磨、淡路、丹波、但馬、近江、若狹、伊勢、美濃、尾張等の国に勅して曰く「所部百姓の歌を能くする男女、及び侏儒伎人を選びて、貢上せよ」とのたまふ」(『紀』)
- 天武天皇14年685 9/15 歌笛伝習の詔
「是日、詔して曰く「凡そ諸の歌男、歌女、笛吹く者は、即ち己が子孫に伝へて、歌笛を習はしめよ」とのたまふ」(『紀』)
- 持統天皇7年691 正/16 漢人踏歌 「踏歌」初出
「是日、漢人等踏歌を奏す」(『紀』)
- 大宝元年701 大宝令制定、雅楽寮設置
治部省に雅楽寮設置
天平時代(奈良時代)
- 天平2年730 正/16 皇后宮百官踏歌
- 天平6年734 2/1 朱雀門天覧歌垣
天皇朱雀門に御して歌垣をご覧ず。男女二百四十余人、五品已上の風流有る者皆其の中に交雑す。正四位下長田王、従四位下栗栖王、門部王、従五位下野中王等を頭と為す。本末を以って唱和し、難波曲、倭部曲、浅茅原曲、広瀬曲、八裳刺曲の音を為す。都中の士女をして縦観せしむ。歓を極めて罷る。歌垣を奉る男女等に禄を賜ること差有り。
- 天平8年736 12/12 「歌舞所」に関する唯一の記録
十二月十二日、歌舞所之諸王臣子等、葛井連広成の家に集ひて宴歌する二首。
比来古舞盛りに興り、古歳漸くに晩れぬ。理に、共に古情を尽くし、同じく古歌を唱ふべし。故に、この趣に擬して、輙ち古曲二節を献る。風流意気の士、儻にこの集へるが中にあらば、争ひて念を発し、心々に古体に和せよ。我がやどの梅咲きたりと告げ遣らば来と言ふに似たり散りぬともよし
春さればををりにををりうぐひすの鳴く我が山斎ぞ止まず通はせ - 天平11年739 10 光明皇后宮維摩講にて仏前唱歌
仏前唱歌一首
しぐれの雨間なくな降りそ紅ににほへる山の散らまく惜しも
右冬十月、皇后宮の維摩講終日、大唐・高麗等種々の音楽を供養し、尓して乃ち此の歌詞を唱ふ。弾琴は市原王、忍坂王[後に姓大原真人赤麻呂を賜る]、歌子は田口朝臣家守、河辺朝臣東人、置始連長谷等十数人なり。
- 天平13年741 10/16 恭仁京の架橋事業①
癸巳、賀世山の東の河に橋を造る。七月より初めて今月に至りて乃ち成る。畿内と諸国との優婆塞等を召してこれに役ふ。成るに随ひて得度せしむ。惣て七百五人。
- 天平14年742 正/16 恭仁京大安殿少年童女踏歌 《新年》類似詞章
丙戌、天皇、大安殿に御しまして群臣を宴す。酒酣にして五節田舞を奏る。訖りて更に、少年童女をして踏歌せしむ。また、宴を天下の有位の人、并せて諸司の史生に賜ふ。是に、六位以下の人等、琴鼓きて、歌ひて曰はく「新年始迩何久志社供奉良米万代摩提丹」といふ。宴訖りて禄賜ふこと差有り。また、家の大宮に入れる百姓廿人に爵一級を賜ふ。都の内に入れる者は、男女を問ふこと无く並びに物賚ふ。
- 天平14年742 8/14 恭仁京の架橋事業②
乙酉、宮城より南の大路の西の頭と甕原宮より東との間に大橋を造らしむ。国の大小に随ひて銭十貫以下位置貫以上を輸さしめて、橋を造る用度に充つ。
- 天平勝宝3年 751 正/16 皇后宮女儒踏歌 於朝堂院
- 天平勝宝4年 752 4/9 大仏開眼供養 女漢躍歌
- 天平宝字3年 759 正/17 内教坊踏歌 於朝堂院 「内教坊」初出
- 天平勝宝3年 763 1/18 内教坊踏歌 於朝堂院
- 神護景雲元年 767 10/24 内教坊踏歌 於大極殿
- 神護景雲4年 770 3/28 河内由義宮歌垣
- 宝亀元年 770 10/1 光仁天皇即位 即位前紀に《葛城》類似詞章
天皇、諱は白壁王。近江大津宮に御宇しし天命開別天皇の孫。田原天皇第六の皇子なり。母は紀朝臣橡姫と曰す。贈太政大臣正一位諸人の女なり。宝亀二年十二月十五日に、追尊して皇太后と曰す。天皇、寛仁敦厚にして、意豁然なり。勝宝より以来、皇極弐無く、人彼此を疑ひて、罪ひ廃せらるる者多し。天皇、横禍の時を深く顧みて、或は酒を縦にして迹を晦す。故を以て害を免るることは数なり。又嘗て竜潜の時、童謡に曰く「葛城寺の前なるや、豊浦寺の西なるや、おしとど、としとど、桜井に白壁沈くや、好璧沈くや、おしとど、としとど、然しては、国ぞ昌ゆるや、吾家らぞ昌ゆるや、おしとど、としとど」と。時に井上内親王、妃と為り。識者以為く「『井』則ち内親王の名、『白壁』は天皇の諱と為あり。蓋し天皇登極の徴也」と。宝亀元年八月四日癸巳、高野天皇崩りましぬ。群臣遺を受けて、即日に諱を立てて皇太子とす。 - 宝亀8年 777 5/28 飯高宿祢穂高薨伝
- 宝亀11年 780 正/16 内教坊踏歌
平安時代前期
- 弘仁7年 816 2 興世書主、大歌所別当となる
- 天長10年 833 11/15-18 仁明天皇大嘗会
- 嘉承3年 850 11/6 興世書主卒伝 「大歌所」初出
- 仁寿元年 851 11/23-26 文徳天皇大嘗会
催馬楽成立期
平安時代前期
- 貞観元年 859 10/23 広井女王薨伝 「催馬楽」初出
- 貞観元年 859 11/16-19 清和天皇大嘗会
- 元慶元年 877 11/18-21 陽成天皇大嘗会
- 元慶8年 884 11/22-25 光孝天皇大嘗会
- 延喜5年 905 4/18 『古今和歌集』奏覧
- 延喜6年 906 11/7 宇多院四十御賀《阿難多不止》
- 延喜8年 908 正/ 演奏記録としての「催馬楽」初出
- 延喜13年 913 3/13 亭子院歌合《伊勢海》《竹河》
- 延喜20年 920 藤原忠房 催馬楽笛譜撰進か
平安時代中期
- 天暦元年 947 正/23 内宴《席田》
- 天暦5年 951 正/23 内宴《安名尊》《席田》《葛城》
- 天徳4年 960 3/30 内裏歌合《安名尊》《桜人》《葦垣》《山城》
- 康保3年 966 源博雅『新撰楽譜』
- 天禄元年 970 12/27 源為憲『口遊』成立
平安時代後期
- 11世紀半ば 鍋島家本『催馬楽』書写か
- 天治2年 1125 『催馬楽抄』移点奥書
- 建久3年 1129 藤原師長薨去
衰退期
- 文正元年 1466 11/23 清暑堂御神楽
- 応仁元年 1467 応仁・文明の大乱(~文明9年[1477])
- 大永5年 1525 3/24 廃絶前最後の演奏記録
御遊
笙 御所作 関白 山科宰相言綱衣冠上上諸
箏 駒 親王御方 州浜四辻中納言
琵琶 爪 中務御宮 西園寺大納言
拍子 下官 付歌 大蔵卿 基䂓束帯 持明院三位
篳篥 橘以諸 薄蔵人式部大丞
笛 源宰相中将
呂 安名尊 鳥破只拍子 鳥急二反 席田 賀殿急三反
律 万歳楽只拍子 伊勢海 五常楽三反
但律歌各一反唱之近代為一反云々、賀殿五常楽等有残楽
永正・年御習礼之時為此分之間今度同不可見ヲ置左右畢抑催馬楽事数年沙汰無く練習に及ばず
再興期
- 寛永3年 1626 9/8 後水尾天皇二条城行幸 《伊勢海》再興
- 天和3年 1683 3/2 立后節会 《安名尊》再興
- 明治3年 1870 太政官に雅楽曲設置
- 明治9年 1876 『明治撰定譜』撰定